2003年、地元への愛と自虐を込めた歌『佐賀県』でブレイク。近年は柔道に奮闘する3兄弟を育てる姿もお茶の間で人気の芸人はなわさん。さらに妻の誕生日に贈った歌『お義父さん』をライブで披露した映像は感動を呼び、公開からわずか20日間で100万回再生を突破。ベストファーザー賞も受賞しました。世間の注目を集め、惹きつける「はなわ家族」を育んだ独特な子育て術とは?
2018.11.6
芸人としてのスタート。それは地元、佐賀を捨てることから始まった。
STAGE編集部:はなわさんの芸人人生。そのスタートとは?
はなわ:小学校4年ぐらいの頃から「芸能界に行くべき存在なんだろう」という根拠のない自信がありまして…当時から、ものまねとか自分で作った歌をアカペラで披露するようなことをしていました。「ファミコン買っての歌」とか「ブリーフパンツの歌」とか、でもそれは小学校でよくあるレベルのものでした。
決定的なきっかけになったのは、高校時代、朝、学校に行っているときです。みんなで汗だくになりながら、遅刻しないために自転車を必死で漕いでいたんですけど…ふと、同じように漕いでいる自分に対して「何やってるんだ?俺」と思い始めたんです。そう思った瞬間に自転車を逆方向に向けて…そのまま近所の土手に座って尾崎豊を聞くと言う(笑)。
子供の頃から教科書やルールに沿った人生は違うんじゃないかと思っていました。佐賀は田舎で上京と言うと福岡や東京はニューヨークに行くぐらいの感覚でしたが、若いし一回挑戦してみようと思って、散々迷惑かけた親にも黙って芸人になりましたね。
STAGE編集部:18歳で上京。やはり「下積み時代」は辛かったですか?
はなわ:「佐賀県」の歌が26歳の時なので下積みは8年ぐらい。今考えると早いんですけど当時は大変でしたね。途中で結婚もありましたし、子供もできたので、やっぱりバイトも色々やりました。コンビニ、引っ越し、皿洗い、ティッシュ配りなど。最終的にはショーパブに落ち着きました。
STAGE編集部:いつ売れるか分からない中、妻の智子さんは?
はなわ:長男が生まれて、本気で芸人を辞めようかなと思ったときもありました。でも嫁は「辞めるな」って言うんですよ。「売れるから」って!凄いですよね、うちの嫁は?テレビとかお笑いのことがよく分かってないし、俺のネタも大して見たこともなかったのに。
『佐賀県』大ヒットの裏で…ある大物ミュージシャンに大感謝!
STAGE編集部:芸人人生のターニングポイントは?
はなわ:ターニングポイントは完全に『佐賀県』の歌ですね。あれ以上のものは無いというぐらい。お笑いライブで歌ってウケるようになっていたんですけど、ちょうどその頃はテレビのネタ番組が無かったんです。そんな時に『爆笑オンエアバトル』が始まって、『エンタの神様』では20分から30分、僕だけのネタをやるという異例の体験もさせてもらいました。数々の賞(ゴールデンアロー賞、日本有線大賞新人賞など)も頂きましたし、まさに夢のような1年でしたね。
正直、当時はあまりにも忙しくて覚えてないことも多いんですけど、今考えると一番すごいと思うのが…とある方がCD発売前にもかかわらず『佐賀県』に激ハマリしてくれてラジオ番組で毎週バンバンかけてくれるんですよ。当時まだ僕は全く売れてなくて超クソ貧乏のときですよ?なのにその方は「はなわって何者なんだ?バンドなの?なんで平仮名なの?」みたいなトークをして下さって。友達からもめちゃくちゃ電話がかかってきましたね。「ラジオで流れてるよ!お前の話してるよ!!」みたいな。その方、実は福山雅治さんなんです。
福山さんは長崎出身で、唯一隣接するのが佐賀県なんですよ。だからどこかで佐賀をイジってたんでしょうね(笑)。そこから実際にお会いして、『佐賀県』を紅白に持っていこうみたいな番組コーナーまで作って下さいました。実際あの年の「紅白歌合戦」に出られましたし、まさに大恩人です。
STAGE編集部:福山さんの「粋な計らい」にはこんなオチも。
はなわ:福山さんが「はなわのライブに出るよ」と言って実際に出てくれることになったんです。せっかく出てくれるので、あえて誰か分からないようにサングラスをかけてもらって、ちょっと暗い照明にして。途中で「メンバー紹介しまーす!ギター、福山雅治!」なんて言ったらお客さんが「え?」、サングラス取ったら「ギャーッ!」ってなるわけですよ。それから4曲ぐらい残りがあったので演奏したんですけど、誰もこっちを見ていなかったですね(笑)。
大ブレイクした芸人に必ず訪れる「人気の下降」。その時、はなわ家は…
STAGE編集部:ブレイクした反動もあり、露出は徐々に減少。「一発屋」への危機に対してとった行動は?
はなわ:他の5~6家族のうちのひとつという感じで、明石家さんまさんの『スーパーからくりTV』という番組から家族出演の依頼が来たんです。当時は芸人として変なプライドがあって家族をテレビに出すのは嫌だったんですけど、知り合いのディレクターさんだったこともあって、1回だけなら良いかと思って出演しました。
お留守番をしているところに悪徳セールスマンが来たらどういう反応をするか?を見る企画だったんですけど、つい笑ってしまって…。その結果が凄く好評で家族を追いかけながらいろいろやってくれることになりました。そんな中、スタッフさんが「何かネタないですか?」と言うから「長男坊だけ、まだ始めたばかりですけど、一応柔道を…」という感じで追いかけていったら、東京チャンピオンになってしまったんです。
STAGE編集部:家族のテレビ出演も、長男の柔道も偶然だった?
はなわ:全くそうですね。柔道やらせたのも、僕がバルセロナ五輪金メダリストの吉田秀彦さんと仲良くさせてもらっていて「息子が体でかいんですよね」ってたまたま言ったからなんです。吉田さんに「柔道やらせたらいいじゃん。柔道やらせたら痩せるぞ!」って言われて。1年で東京チャンピオンになった代わりに10キロぐらい太りましたけど(笑)。
でも「からくりTV」自体が終わって、嫁がずっと佐賀で子育てしたいと言っていたこともあって、これを機に佐賀に移住することにしたんです。正直、結構悩んだんですけどこのタイミングしかない、今行かないとずっと行かないからということで決断しました。それが今から7年前ですね。
〈草刈民代〉キャリア35年のバレエを完全引退。女優道をまい進する彼女が見出した試行錯誤の人生とは…
8歳の頃にバレエを習い始め、10代半ばでプロの道へ。日本で最も歴史ある全国舞踊コンクールのバレエ部門で第1位になるなど、まさに日本を代表するバレリーナとなった草刈さん。1996年、映画『Shall weダンス?』のヒロインに抜擢されると女優としても有名に。日本中に空前の社交ダンスブームを巻き起こしました。その後もバレエ界の第一線で活躍したのちに43歳で引退。新たなキャリアを築き上げています。常に自分を追い込み、磨き続けてきた彼女の人生観とは一体?