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8歳の頃にバレエを習い始め、10代半ばでプロの道へ。日本で最も歴史ある全国舞踊コンクールのバレエ部門で第1位になるなど、まさに日本を代表するバレリーナとなった草刈さん。1996年、映画『Shall weダンス?』のヒロインに抜擢されると女優としても有名に。日本中に空前の社交ダンスブームを巻き起こしました。その後もバレエ界の第一線で活躍したのちに43歳で引退。新たなキャリアを築き上げています。常に自分を追い込み、磨き続けてきた彼女の人生観とは一体?

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2018.7.4

わずか1カ月でやめた高校生活。バレエにすべてを賭けた。

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STAGE編集部:人生の第一幕。プロのバレリーナを目指した経緯とは?
草刈:8歳でバレエを習い始めたときから、プロフェッショナルになりたいというイメージがありました。中学生の頃には「普通の学校に行くことにエネルギーを費やすことが将来のバレリーナの道につながるのだろうか?」と学校に行くことに疑問を抱き始めました。私は幼稚園から一貫教育の学校に通っていたのですが、学年が上がるごとに学校のカラーも合わなくなってきて、高校に進学した頃には、精神的にも行き詰まってしまったんです。それを見兼ねた両親がバレエの先生に相談したら、「本気でやるんだったら、私が預かります」と言って下さって。その一言で高校を退学することに決めました。
フィギュアスケートを見ても分かりますが、身体的な技術を身に付けるには訓練していくしかないですし、実力をつけるためには良いコーチとの出会いがないと難しい。でも何よりも、まずは親の理解や真剣さに助けられて来ました。彼らは私の熱心さに引きずられたと言っていますが、私の能力を信じて「バレエ1本に絞ってみたら」と背中を押してくれていなければ、今の私はないと思います。
STAGE編集部:背中を押してくれた両親の決断…
草刈:父は「やるならとことん」というタイプの人なのですが、私に対しても必要な勉強はすべてさせてくれました。「外国だったら国立の学校があるし、親がしなくても国がやってくれる。でも、日本ではそうはいかない」と、環境のこともよく理解していました。そのおかげで私は「恵まれている」と人からは厳しい目で見られることが多く、若いうちは大変なことばかりでしたが、簡単に認められなかったことが良かったと今は思います。
STAGE編集部:そんな中、心に芽生えた思いとは?
草刈:日本ではほとんどのダンサーが、舞台で踊るだけでなく教えながら生計を立てています。欧米では公共の劇場がバレエダンサー、オーケストラ、オペラの合唱、歌手などを雇っているので、ダンサーたちは劇場で働いているということになるのですが、日本にはその環境がありません。バレエ一筋で頑張っていても、毎月十分に給料を出せるバレエ団はほとんどないのが実状なのです。
そんななかで私は「踊っていて何になるのか?」という迷いと、「でも、これしかない」という強い気持ち、常にその中で揺れ動いていました。「いつやめようか?」ということを考えることもたびたびありました。好きでやっていると言っても、それだけで踊っているのはかっこ悪いとも思っていました。その時期は精神的に不安定で怪我も多かったんです。でも、一方では「もっとできるはず」という強い気持ちもあって。いつも混沌としていて本当に辛い時期を過ごしました。

30歳でつかんだチャンス『Shall Weダンス?』への出演

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STAGE編集部:人生を変えたのは映画への出演。しかし、バレエの舞台に立ち続けるという「軸」はブレなかった。
草刈:そんな中『Shall we ダンス?』に出演して、私の名前も広まって観客動員が一気に増えました。バレエ団の公演以外でも、私を使って企画を立ててくれる人が増えて、バレエの仕事が充実し始めたんです。このおかげで私は、日本国内でもプロフェッショナルの道を開拓していくことができたのです。演目を決めたり、ギャラの金額についての判断をしたり。その他にも、雑誌、テレビなど様々な仕事を通していろいろな角度から「仕事とは?」ということを覚えることができました。

STAGE編集部:バレリーナは、まさに身一つで稼ぐ仕事
草刈:踊りというのは言葉もなく、「どれだけ表現できるか?」ということに尽きます。
その価値がどれだけの稼ぎにつながるかという非常にわかりやすい仕事です。ウソがつけないシンプルな職業なのではないでしょうか。

STAGE編集部:自分で稼ぐ。「本当のプロフェッショナル」になって変化した事とは?
草刈:自分で稼いだお金を思うように使えるようになって、自分を向上させるためのあらゆる工夫にお金をかけられたことが良かったです。体の維持や、さらなる向上を目指すために、治療やトレーニングは欠かせませんでしたし、時間が空いたときには、海外の先生にレッスンをしてもらいに行くこともありました。英語の勉強もしましたしね。何事も良い先生、良いコーチにつけば結果は出ます。でも、それにはお金がかかります。そこに制限をかけず、納得いくまできたことが良かったです。
結局、自分自身を向上させていくには、あらゆる方向からの工夫が必要で、そこにお金をかける必要があるのです。私の場合も振り返ってみれば、バレエの先生も、トレーニングのコーチも、治療の先生も、より高いレベルの人を求めていきました。
プロのアスリートをみればわかりますが、やはり実力のある人は稼ぎも大きい。アスリートに限らず、楽器演奏者、オペラ歌手など、身体的技術を磨いていく必要がある分野では、力がある人ほど良いコーチがついています。良いコーチは当然報酬も高い。教えて下さる方々も、当然レッスン料を払ってレッスンをして来られたはずで、レッスン料は教えてくださる方の、才能、それまでの時間や労力、全てに対する対価です。
この感覚はワールドスタンダードとも言える、プロフェッショナルの世界での了解ごとのような気がします。こういうことを理解できたことが、「対価」に対しての自分なりの基準につながっていったと思います。バレリーナの活動を通して身につけられたことは、プロフェッショナルな視点です。それが今の仕事にもつながっているし、自分の生き方の軸になっていると思います。
STAGE編集部:旧ソ連やルーマニアでの公演を成功させ、2005年には『愛・地球博』の野外公演もプロデュースするなど日本を代表するプリマに。そして2009年、35年にも及ぶバレエ人生に終止符を打った。
草刈:あの時期でやめたのは、自分でこれ以上踊るのは無理だと思ったから。やはり引き際は明確にしたかった。引退公演は自分でプロデュースをしました。単に私の最後の公演というだけでなく、日本初演の演目も紹介できましたし、最後まで新たな試みができたことが良かったと思っています。
草刈民代

草刈民代

1965年、東京都生まれ。8歳でバレエを始める。高校をわずか1か月で離れ、牧阿佐美バレヱ団に入団。国内で頭角を現し海外公演も成功させた96年、周防正行監督作品「Shall we ダンス?」で女優デビュー。初出演ながら日本アカデミー賞主演女優賞を獲得するという快挙を達成した。2009年、バレエを完全引退し、女優業に専念。映画やドラマはもとよりミュージカルなどでも活躍中。

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